神奈川県スキー連盟役員

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挑戦  山田 隆
1989.11.5 創立50周年記念誌発刊


 平成元年はこれまでにない暖冬の中で明けた。1月の半ばを過ぎても山には雪が少なく、春を思わせるような陽気が続いている。高い気温にすっかりゆるんだ少ない雪を選びながら、ゆっくりとスキーを滑らせていて、何故か昭和46年の春、八方尾根で行われた第8回SAJデモンストレーター選考会のことを鮮烈に思い出していた。

 あのとき、総合滑降の舞台となった黒菱の斜面もひどい雪だった。失敗さえしなければ念願のデモになれる…。慎重に滑るつもりだったが、スタートするとコブだらけの急斜面の中で思うように身体が動いた。狙ったラインに切り込んでいくスキーさえ見えるような気がした。手も足も己が意志のままとなり、身も心も斜面に溶け込んでいった。大きなエアターンをして、まっすぐゴールに向い、停止位置で止まった。 まわりから起こった拍手で思わず我にかえると、急に体中がカッと熱くなった。自分の力の限りチャレンジしたことへの満足感と精一杯運動した後に感じる喜びで、震えるほどの感動が全身に広がっていくのがわかった。


 あのような感動を味わうこともなくなって何年になるのだろう。かつて私の血をあれほどまでにたぎらせて挑戦したデモ選とは、そして手にしたデモンストレーターとは、あれは一体何だったのだろう。1月にしては暖かすぎる日差しをうけて、ゆっくりとスキーを滑らせながら思いを巡らせていた。 大学3年のとき、準指に合格してその年のデモ選に推薦されて出場したが、このときはデモンストレーターの何たるかも知らなかった。しかしこのときから、デモ選はチャレンジする対象として、私の心の中に大きく位置を占めるようになった。デモに認定されることによって、自分の人生が変わるかも知れないと思い込むまでになった。


 ところが昭和47年度のデモに認定された私の人生は、何も変ることはなかった。むしろサラリーマンを嫌って定職につかなかった私を、世間は物好きな道楽者としか見てくれなかった。デモとは何なのだ、私は答を出せない私の若さと未熟さが悔しかった。 家族と起こした事業に没頭する毎日が始まり、スキーに行く日数はめっきり減っていた。それでもデモ選には毎年挑戦を続けてきたが、それは以前とは少し意味が違うものになっていた。仕事をすればするほど、胸を熱く焦がして挑戦する何かが必要になっていた。 年に10日しか滑れないスキーヤーの中では一番になってやろう、スタート合図を待つとき、ゴールしたとき、そのときの緊張も解放感も、熱い血のたぎりも、震えるような感動も若い君達と同じなのだ。これがスキーヤーとしての自分に自ら渡すことのできる存在証明なのだ。 昭和56年を最後として、挑戦しつづけてきたデモ選に、もう選手として出場することはない。しかし今でも、スタートのときに胸を突き上げる熱いものを感じて、思わずストックを握りしめることがある。

(SAK50周年記念誌より掲載)


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