名誉会長黒川秋三さん追悼(50周年記念誌より)

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クルッケンハウザー教授招聘のころ 黒川秋三
1989.11.5 創立50周年記念誌発刊

◆私の先生たち  私のスキーの人生には立派な先生が二人いる。一人は「オーストリースキー教程」の翻訳などを出版され早くからオーストリースキーを日本に紹介された、故福岡孝行先生。いま一人はスキー技術の第一人者と言われた、燕温泉の藤巻文司先生である。私はこのお二人の先生に貪欲に食い下がり、スキーについて教えを受けた。 お二人との出会いは昭和23年、私がはじめて燕温泉にスキーで訪れたさい泊まった宿の息子さんが藤巻さんで、その藤巻さんに後日福岡さんを紹介された。その後、福岡さんのお住まいが藤沢ということもあって、横浜の私の家へよく寄ってくださるようになった。(写真、一番右側が、故黒川名誉会長)


◆先生をヨーロッパに送り出す  昭和35年、藤巻さんが「ウエデルンの道」を発刊したのを期に、私はなんとか藤巻さんにもっとスキーの勉強をしていただきたいと、ヨーロッパへ送り出したかった。当時一般には海外旅行は認められず、また外貨幣も限られていた。全日本の関係でも海外派遣は競技が中心の時代で、オリンピックや世界選手権が認められるのみ。とても基礎スキー関係を送り出す状況にはなかった。そこで、京浜地区の仲間に呼びかけ、後援会を作り外貨の枠をなんとか見つけることができた。 昭和36年日本を立った先生は三ヶ月間、おもにオーストリー国立スキー学校のクルッケンハウザー教授のもとで教えを受けられた後帰国された。クルッケンハウザー教授への紹介は福岡さんを通じて、在欧中の松田智雄(東大教授)、小原哲郎(玉川学園副園長)氏らの御尽力によるものであった。 藤巻さんは帰国後、私に会う毎に「いまのSAJでは無理だが、是非オーストリーから若いインストラクターを1、2名招き、日本の指導者や若い人達にオーストリースキーの教えを直接受けさせてやりたい」と語っておられた。福岡さんと私をはじめ藤巻さんの帰朝談を聞いて賛同された方々何人かで、早速「オーストリースキー友好協会」を作りそのための準備が始まった。


◆クルッケンハウザー教授を招くことに 準備の段階で話が大きくなり、結局クルッケンハウザー教授本人を招こうということになった。交渉の窓口は福岡さんで書面と国際電話で大体の目処がつくと、こちらの受け入れで会長をだれにするかが問題になった。私は昭和の始め成城・玉川の両学園のもと、シュナイダーを招聘されたことのある小原国芳先生(玉川学園学長)が一番の適任者であると提案し準備委員の賛成を得た。ちょうど玉川ではクルッケンハウザー教授監修の「シーハイル」発刊の準備中であったこともあり小原先生も快諾され、成城を含む三者による準備が着々と進められた。 当時SAJの理事であった私は連盟との調整にも気を使わなければならなかったが、これは容易なことではなかった。なにしろ当時のSAJは先に述べたように競技優先の考えや、なによりもSAJが主導権を握れない招聘は賛成できないという考えも一部にあったからである。なんとか招聘委員の中に現職役員の名を連ねることで、SAJ後援の形式を理事会で了承できた。 これは、はじめて明かすことだがこんな事があった。招聘準備中の頃、クルッケンハウザー教授から福岡さんへ一通の手紙が届いた。内容は「日本にはスキー連盟が、ふたつ有るのか」という問い合わせだった。理由はこうである。 教授のもとに朝日新聞社を通じて、SAJが直接招聘したいという通知が来たのだという。我々は驚いて新聞社に確認もしたが、当然SAJがこのような事をするわけもなく、あまり究明しないことにした。

◆バインシュピール技術を目の当たりに さてこうして、紆余曲折のすえ何とか準備が完了した。主催は玉川学園、成城学園そして日本オーストリースキー友好協会。後援オーストリア大使館、文部省、全日本スキー連盟という受け入れ体制も整った。昭和37年12月に一行の先陣をきってノイマルとシュバルツェンバッハが来日、本講習に備えて日本のスタッフ20名のアシスタント研修会が燕温泉で行なわれた。これらのスタッフはクルッケンハウザー教授の要請もあり、特にこれからの日本のスキー界のリーダーとしての活躍が期待できる若者を、SAJの技術員を含め各地から選出した。神奈川からは川崎の丸山豊太さんもその一人だった。また、通訳には当時学習院の学生だった福岡孝純さん達が大いに活躍された。 クルッケンハウザー教授夫妻がフランツ・フルトナー氏を伴って来日されたのは、昭和38年2月の中旬であった。始めての本講習は札幌の三角山で行なわれた。正規の講習会の側で集まってきた子供たちに、婦人がスキーを教えられた光景はほほえましく印象に残っている。 2月27日から3月9日まで、四次にわたる特別講習会を、苗場、八方で行ない、そのほかにスライドを利用した講演会も新宿・厚生年金会館をはじめ、大阪・中之島公会堂などで開催するなど、めまぐるしいスケジュールをこなされて3月中旬には夫妻は帰国された。


◆この大事業を終生の誇りと思う フルトナー氏ら三講師は3月下旬まで滞在し、玉川・成城の合同講習会、そして最後はニセコにおける北海道指導委員会の講習会を行なった。このニセコの講習会は柴田氏らの強い要望で実現したもので、必ずしもSAJの協力体制が浸透していなかった各都道府県連の中で、全道の指導員達にオーストリア・バインシュピールの技術を理解していただく絶好の機会となった。私はこの講習会が全講習会の中で最も充実したものとなったと思っている。 この派遣にたいしてオーストリア政府では特に「オーストリアスキー教育使節団」の称号を与えた。また、教授御夫妻は小原先生が同行し東宮御所において皇太子御夫妻にお目通りするなど、一行の招聘が両国の親善に尽くされたことは、関係者として慶びであった。 最後に副会長の役職にありながら長期間職責をあけたことに理解をしていただいた神奈川県連にたいしてと、個人としても一年半家を留守にしていた家族に対しても、感謝しなければならない。 また、玉川・成城両学園と私どもの「日本オーストリー友好協会」の三者が、最後まで仲よくこの大事業を成し遂げたことを終生の誇りと思う。

黒川秋三さんの略歴

昭和24年〜26年    神奈川県スキー連盟 理事
昭和27年〜32年    神奈川県スキー連盟 理事長
昭和33年〜38年    神奈川県スキー連盟 副会長
昭和41年〜48年    神奈川県スキー連盟 顧問
昭和49年〜50年    神奈川県スキー連盟 第4代会長
昭和51年〜平成11年 神奈川県スキー連盟 名誉会長

この間、上部団体派遣役員として、全日本スキー連盟の理事にも就任されていました。


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