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神奈川のスキー選手権初期の頃
(財)神奈川県スキー連盟副会長 小林幹夫
2001.5

   1939年2月17日に神奈川県スキー山岳連盟「1954年、スキーと山岳に独立)が発足し、3月5日に、第1回神奈川県スキー大会が、志賀高原で開催され、第5回大会まで行われたが、戦争で中断し、1948年に、志賀高原で、滑降、長距離、耐久(距離コース2周)、継走に約100名の選手が参加して、第6回の大会が再開され、今回で60回と節目の大会となります。
   
   1923年に小樽で、第1回の全日本スキー選手権が、開催された。種目は、ディスタンス(クロカン)が主流で、1km、4km、10km、8kmリレー(1929年7回大会にオリンピック種目に合わせ、18km、40km、28kmリレー、純飛躍、複合になる)テレマーク・スラローム(テレマークは、ジャンプの着地の姿勢で、谷足を前に出し回転する深雪に強い技術)クリスチャニア・スラローム、ジャンプの7種目で、第15回大会(1937年)から、アルペン種目として、男子は新複合(滑降・回転)女子は、格好だけが行われた。
   
   当時、アルペン競技は計時に対するトラブルが多かった。計時の方法が確立されていなかったためで、出発合図員は、ゴールで親時計に合わせた時計を持ちスタート地点まで自力で登り選手をスタートさせるのだが、当時の時計の精度から時間と標高差による気温の差で、数分も狂いが出たり、秒以下の計測にストップウオッチを使用したが、寒気に弱く誤差が一定していない等、正確な計時ができなかった。
   
 

 1949年に電気時計装置の第一号機が作られて、1950年の米沢国体の回転競技に使用された。以後改良を重ねて現在の計時装置に至っている。これ以外に、ゴールとスタートを通信装置で結びゴールからの指示で選手をスタートさせ、ストップウオッチで計測する方法が採用されて最近まで使われていた。(参考資料1971年に発行された現代スキー全集)

   
   スキー場も、降雪量が多く、冬期間人工を要せず天然のスロープを自由に滑るという限られた場所であり、全国的な競技会の滑降レースに出場する選手などは数日前からコースの下見を兼ねて数時間をかけてスタート地点まで登り、コースを一気に滑降する練習をした。本番のレースはスタート地点から、フリー滑走で滑ってゴールするという今では想像もつかない競技会であった。
   
   リフトは1947年頃に、進駐軍専用のスロープとして、札幌の藻岩山と志賀高原・丸池に設置された。1950年に草津温泉スキー場に、最初のリフトが設置され、その後、各地のスキー場に新設された。リフトが整備されてから、アルペンの練習が容易になったが、現在のように、朝一番ゲレンデが綺麗に整備できる圧雪車が開発されるまでには、大会コースは、全部人力での整備、真竹のポールでセットして、インスペクションも下から踏み上げで行い、選手も役員も永い間苦労して大会を運営した。
   
 

アルペン競技が盛んになり、クロスカントリーが衰退し、競技人口が逆転しているが、これも時の流れと割り切れないものがある。最近は、スキー競技会も大会毎に開催できるようになり、1シーズンに何回も競技を楽しめ又、ここ数年、スキー技術の進歩や、用具の開発により短期間で良い滑りが出来るようになり、各種大会での、ジュニアの成長が見られ将来が楽しみで、その為にも20歳代の会員の活躍の場を与えてやることが大事なことで、県連をはじめ、各クラブ、協会で真剣に取り組んでいくことが大切な事と思います。

   
   最後になりましたが、第60回神奈川県スキー選手権大会から、アルペン、クロカンが上越国際スキー場で同時開催されますが。アルペンの選手でも、クロカンの、フリー、リレー競技に出走することも可能です。チャレンジしてクロカン競技を盛り上げてください。選手、役員が協力して、大会が成功裡に開催できますよう願い終わりとします。
 
 
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