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スキー人生 振り返れば大波小波
大森 睦弘
第49回 宮城県・鳴子国体 大回転成年男子1部C 優勝
1999.1
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SONYにはいって(中途入社)本格的に競技スキーを始めた。 それまでは3才ごろからスキーはやっていた事も有り、
基礎スキーで自分がやろうと思った事は、 全部やってしまったつもりだった。 スキーに対してなにかわからないがある種の空虚さを感じたころだった。
岩手での技術戦緩斜面種目で、 バーンに水が撒かれたところを滑ったのが、 今思えば、妙に懐かしい思い出である。 また、厚木に引っ越す2年前ぐらいから、
スキーのトレーニングではじめた自転車のロードレースが、 そのころちょうど面白くなり、 いろいろ成績もではじめていた頃である。 それで、厚木へはスキーは捨てて自転車にかけようと決心してやってきた。
スキーはもうこれ以上はうまくならない。 自分の素質の限界だと信じきっていた。 1986年1月に厚木に来た。 最初は自転車をやっていたけれど、
SONYでも思ったよりもスキーが盛んだということがわかり、 つい魔が差してその2月の苗場合宿に参加してしまった。 |
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これで、またスキー人生が再スタートすることになってしまったのである。 ここで、競技スキーの練習を系統的にできるチャンスに恵まれ、
ふと気づくと、以前とは違う快感がそこにはあった。 「なーんだ、まだまだうまくなれたんだ。」 神奈川県へのデビューはその次の年だった。
3月の県スキー選手権。 斜面変化での飛び出し方向を間違え、 旗門不通過でポイントなし。 迎える1988年、いきなりノーポイントで国体予選を迎える事となってしまった。
自分がどれだけの位置にいるのかもまったく検討もつかないまま、 何も考えないでスタートを切るはめになった。 前日のカザマスーパーGまではSONYからも、
10人ぐらいはいたのだが、 その後に続く2日間の国体予選は私一人を残して全員帰ってしまった。 結局、まさかとは思ったが、最初の日は2位、次の日滑ってみたら優勝していた。
そして、なんだかよくわからないうちに、 国体にデビューできることになってしまったのである。 ここにきて、はじめて自分の位置がわかりはじめた。
それまでは、とにかく何も考えずにただひたすら自分との戦い、 (如何に試合で自分の実力を出し切るか) に集中するだけしか考えなかった。
何度も出させていただいている国体であはるが、 まったく大きな失敗をしないで余裕で滑る事ができたと思ったのは、 たったの一回。 後は、多かれ少なかれミスを犯して、
その大小によって順位も変わった。 ミスの程度により順位も変った。 自分の実力にはあまり関係なく順位が決まってしまっているような気持ちだった。
そのころは、あー、あのミスがなければとか、 技術力のせいではなく無理をした事が大きな理由だと思っていた。 でも、本当は総合的な技術力と精神力が問題だったとわかってきたのは、
だいぶ後になってからのことである。 やはり、自分をいつも第三者的に見ていてくれるコーチがいると、 ありがたいなと痛感した。 技術的にも系統的に、
自分の今の段階で最適な練習を選択できるような指導者が欲しかった。 あのころの頼りは、 女房が寒い中、 一生懸命撮ってくれたビデオと、
女房の目からみた辛口批評。 でも、そんな支えがあったから、 自分も一生懸命やることができたと思っている。 |
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東京新聞1994年2月17日朝刊 (このホームページ限定で掲示の許可をいただいております)
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優勝以外は最下位でも同じと思って滑ってきた。 ただ勝つ事(当然優勝)だけを目標に、毎日をすごしてきた日々であった。
でも、国体で優勝した年は、 その他の年とは向かう気持ちがずいぶん違ってた事に気づいた。 勝ちたいという結果を考える気持ちではなく、
自分の最大の力がだせる事、 すなわち、 滑る事だけに自分の意識を集中できる事をやってのけていたようだ。 C組(35才以上)だけが温泉の湯治場に宿泊している
おじいちゃんおばあちゃん集団の長屋に泊まる事になった。 部屋にはいるやいなや、あー、とうとう俺も見捨てられたか。 (誰もそんなつもりで部屋を決めたわけではないのに、
こんなつまらない事でそこまで考えるかとも思うが) 一般にスポーツ選手は、 いくら昔はすごくても、 今がすごくなければ、 やっぱりだれも振り向いてはくれなくなる。
おおげさだが、(誰を責めるというのではなく) そんな人間の性への怒りのような気持ちもあった。 結果としては、 俺だってまだできるんだという気持ちを大会にぶつける事で、
なぜだかすごくいい状態の集中ができたような気がする。 非常にクリアーな気持ちでスタートバーを切る事ができた。 発情ならぬ発憤が、 自分への不安というものを吹き飛ばしてくれて、
ただひたすら速く滑るだけの、 よい集中が可能になったのだと思う。 また、なぜかこの年はあまり無理なトレーニングをしなくなった年でもあったのだ。
自転車で300km, 10時間を目指して年に3回のたった一人のロードレースも、 この前の年からやめてしまっていたのである。 それは、女房といっしょに居る時間を大切にしたいと思ったから。
だから、そのぶん女房といっしょにいられる時間も増えた。 短い時間で最大の効果が出せる練習方法をいろいろ考えはじめた年でもあった。 それまでは自分のからだを無視して、
体がうごくかぎり自転車とかやっていたが、 自分の体と精神を冷静に見、 状態を正確に知り、 それに合ったトレーニングを行う事の大切さを身を持って知ったのである。
例えば、 苦しいだけがトレーニングではないし、 休憩もトレーニングの一部なんだということ。 |
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最近は、 みんなから、もうやめろと言われ、 女房までも、もう優勝したからいいでしょ。 ということで、ハンディカムが壊れた事をいいことに、
彼女はスキーもやらなくなってしまった。 (実は商売のガーデニングが土日に忙しい) こんなにやりたいことがたくさんあった 彼女なのに、ずーっといっしょにスキーに付き合ってくれた。
彼女は、自分のためにスキーをしていたのではなく、 とうちゃんのために渋滞や寒さをこらえて、 いっしょに付いて来てくれてたんだなという事を、
つくづく感じる。 周りが見えてきて、 そしてまた、自分自身もよく見えてきた気がする。 ん、ひょっとしたら、また1つ上の段階へ、
進化しようとしているのかもしれない。 最近の道具はすごくよくなって、 ある意味では、 運動能力よりも技の方がタイムアップにつながりやすくなってきてる。
スキーよりもローラーブレードで練習した方が、 場合によっては簡単にその技の本質を捕まえやすくなっている。 これは、ローラープレードの進化にもよるところが大きい。
ついでではあるが、最近特に強く実戦している事がある。 ターン切り替えでは必ず足裏から動いて、 (絶対上体からではないし、膝からでもない)
スキーがターンするに従って自転車を漕ぐ様に、 自分からスキーをたわませるイメージでスキーを押して行く。 実はこのイメージは、 ローラーブレードで最も基本的と感じたイメージでもあるのだが。
これが、全身のパワーをスキーにうまく滑らかに伝える秘訣ではないだろうか。 なーんて思いながら、 相変わらずスキーを続けている今日このごろである。
1999年5月5日
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