大房英一 水野矯夫氏とレルヒ少佐

前略

 10月17日の藤沢協会50周年記念にご出席下さいまして誠にありがとう御座いました。
レルヒ少佐の写真をお届けしました。写真の下にコメントがありますが言語には弱いものでよろしくお願いいたします。尚、下の数字は1912年ではないかと思います。

 藤沢スキークラブの会員でした水野夫(たけお)さんは、1980年〜1998年の間部員でしたが他界いたしました。享年88歳。手紙には色々と書いてありますのでよろしくお願いいたします。乱筆にて失礼します。

藤沢スキークラブ 名誉会長 大房英一


同封のレルヒ少佐の写真

レルヒ少佐直筆のメッセージが見える

 

 藤沢スキークラブの皆様への言葉

 長い間、楽しくクラブでスキーをやらせていただきましたが健康上の理由でスキーをやめることにしましたので一文を書きます。クラブ会員は続けさせてください。
遠からずこの世からおさらばするのでしょうが、小生専門の絵画、工芸を中心に、実に多趣味で且つ我が侭勝手な愉快な生活をして来ましたが、スキークラブとのお付き合いも忘れられない楽しさでした。その余韻は永久に消え去ることはないでしょう。(中略)

 さて、小生スキーを最初にやったのは幼稚園の時です。生まれたのは北海道の陸軍師団将校官舎で明治四十四年三月八日に産声を上げました。
父は旭川師団の野砲隊の軍人、そして日露戦争に中尉として従軍しました。ご存知だと思いますが日本に初めてスキーを指導したのは、オーストリアのテオドル・フォン・レルヒ少佐で明治四十四年(1911年)一月高田で一部の華族、士官にスキー術を指導したのです。引き続き旭川師団に来て父の中隊も配属されシベリアに於ける対ロ戦闘の指導をされたのです。
ご承知の事と思いますが昭和三十年青森歩兵第五連隊による八甲田山雪中行事で二百名の死者を出した大事件があり、厳寒地シベリアの対ロ戦争が陸軍の問題だったのです。
同封しましたレルヒの写真は、小生数え年二歳の時のもので、空襲で在京の家は焼けましたが防空壕の中で助かったアルバムから取りました。レルヒは家へよく遊びに来られたそうです。
この時の功績により、オーストラリア政府から父に勲章が送られて来ました。当時旭川は冬は零下三十度以上あり、スキースポーツをやる人はありませんでしたが、最も恩恵を受けたのは郵便配達夫だったそうです。父は直ぐ高田師団に転任となり高田で数年過ごしました。幼稚園の頃、父が子供用の一本ストックのスキーをくれましたが近所の子供でスキーをやる者はなく一人ですべりましたが面白くなくて直ぐにやめました。
レルヒは第一次世界大戦の時は少尉だったそうですが敗戦により大国オーストリア帝国は崩壊、分割され消息不明となりました。
高田にレルヒの銅像が立ったとき遺族代表で娘さんが除幕式に来られました。娘さんはロンドンで学生相手の下宿屋(ドーミトリー?)をやって居られるのがわかりました。姉は小生より四歳上ですがレルヒに大変可愛がられたのでその後三度ほど来日されましたが、姉が度々お会いしています。姉は在京女子大学の英文科卒で会話が達者でしたので…

 戦後鵠沼に移り住み藤沢美術家協会を作り、市展を開き小林英見氏の父上(天才的画家)の交誼にあづかりましたが、スキーが流行して来ましたのでやって見たくなり若い友人に少し習い八の字形のスキーを覚えて毎年スキーに行きましたが、急斜面は駄目で年齢からいえばスキーをやめる頃になって、藤沢スキークラブに入会させていただき、パラレル等を指導して貰い三級に結構よい成績でパスし、猛然とやる気が出て来ました。遂に二級も取りましたがそれから上達は捗々しくなく、小林会長の御好意があり一級を受けて大房指導員から一級をいただきましたが、外部に発表できないのですが、七十二歳で元気にスキーをやっている事を若い方々の手本そして特別に合格させたと、授賞式で大房氏が一同にお話がありました。今でもなんとかスキーをやれましが、これは生まれつき無類に足が強かったからです。(中略)

 スキーは全くよいスポーツです。今日のようにゲレンデが混んでいても空気は清く美しい山々を望み、子供から老人まで同じ現場で楽しめる唯一のスポーツと思います。
藤沢スキークラブの益々の発展を期待すると同時に御指導下さいました小林名誉会長、現会長をはじめ指導者の方々に御礼申し上げる次第です

妄言多謝  八十四歳 水野

※写真に書かれている文字については現在解読中です


水野さんからの手紙(一部)